石州犬MAP

「石号」を始め、数々の石州犬の名犬を東京へ山出しし、石見の犬の素晴らしさを世に知らしめた中村鶴吉氏。彼のおかげで、現在の柴犬の隆盛があるともいえるでしょう。彼が残した探査記録を元に石州犬マップを作成しています。また、中村氏の人生や歩みも調査・研究しています。

 


中村鶴吉さんにつきまして、今私たちがわかっていることは…

 

●島根県石見地方(益田市?浜田市三隅町?)出身の方

●昭和の初めに石州犬を東京へ送り出す

●その一頭が現在の柴犬の祖犬「石号」

●犬舎名はエンペーカー

●東京で歯科医を経営されていた

 

だったのですが、

その後、島根県浜田市弥栄のご出身であることがわかり、なんと親戚の方や東京在住の中村鶴吉さんご本人のお孫さんとも出会うことができました!

 

 


●石州犬探査記ルートMAP

 

古い書籍から見つけた中村鶴吉さんの「石州犬探査記」を元に、どの様な行程を歩かれたのか、現在の地図で再現してみました。

地図上では、各地点を直線で結んでいますが、実際には道無き山々を右に左にと、紆余曲折しつつ歩かれたことと思います。

 

資料:昭和11年発行「昭和日本犬の検討」(犬の研究社)刊 中村鶴吉氏「山陰犬特に石州犬について」より作成


※クリックで拡大します!

この探査は、昭和11年度の第三回目ということですので、中村さんは、たびたび東京から石見へと帰って来られていた様です。この行程を踏破するのにどれくらいかかったことでしょう。今の様に舗装された道もほとんどない時代です。

 

※このルートマップを作成するにあたりまして元となった文章はこちらです。


●中村鶴吉さんについて

 

いろんな書籍や聞き取りをしていると、中村鶴吉さんに対して、時にネガティブで批判的な表現に出会います。たとえば「故郷の犬を東京に送らせた」「売りまくっていた」「犬を商売にしていた」などです。まるで、鶴吉さんが、犬に愛情があるわけでなく、ただお金が目当てであったような言い回し。

石州犬の祖となった「石」を讃えるのに、どうしてその犬を「山出し」した中村鶴吉さんには、否定的なことをいう人がいるのでしょうか?

私は悲しくなりました。

 

そこで、鶴吉さんがどんな思いで、故郷の犬を「山出し」していたのかを調べようと、それがわかる書物を徹底的に探しました。そして、中村鶴吉さんが、書いた「石州犬探査記」を二点見つけることができました。


昭和11年「昭和日本犬の検討」(犬の研究社)刊 
昭和11年「昭和日本犬の検討」(犬の研究社)刊 

その一つがこちらです。

これによると、東京から鶴吉さんは、何度も石見を訪れ、山中を探索しています。上記の探査記ルートは、この文章に登場する地点を直線で結んだものですが、実際には、山や谷の連続、かなりの遠回りをしたことでしょう。

 

中村さんは。その道中について

「山又山、谷又谷約二十里、続いて昼なお暗き山路を狸の香のする、何となく気味悪い道無き山を、人の踏んだと思う草の踏みつけられた所を、毒蛇を払いながら・・・」

と記しています。このルートを回るのに、一体どれだけの時間がかかったのか、気が遠くなるような道のりです。


 

 「東京に送らせた」と、あたかも人を使っていたような表現ですが、そうではなかったことがここからは、読み取れます。

また、百万歩譲って、中村鶴吉さんが「犬で商売していた」として何がいけないのでしょうか?莫大な資産家やお大尽ならともかく、歯科医という職業をおいて、遠方からの交通費や長期の滞在費、何より大切な犬を譲り受けるための費用など、かなりの実費がかると思われます。実際に、石州犬を飼っていたのは、その多くが猟師であり、彼らにとって、犬は生活の糧を生む大切な存在なのです。

 

何より、大切なパートナーであり家族である猟犬を譲り受けるために、飼い主を説得するには、かなりの時間やエネルギーもかかると思います。よほどの情熱や志がない限り、そのような苦労を、ただのビジネスとしていたとは、この探査記録を見る限りとても思えません。

 

そして、中村鶴吉さんをネガティブに捉える人に私は問いたい。

それならば、中村鶴吉さんが石州犬を東京へと連れてきて、日本犬保存会に登録しないほうがよかったのでしょうか?

 

石号は、あのまま石見にいたほうがよかったですか?

そうなったら、「不滅の種雄」アカ号も「戦後柴犬中興の祖」の中号も存在していません。もっというなら、中村さんが、石州犬を「山出し」をしなかったら、現在、島根県に石州犬が残っていたと思いますか?

 

伝染病や戦争などあらゆる災禍(戦時中には、犬を食べたという記録も残っています)を逃れ、雑種化もせず生き延びていたと。


 

日本犬は、日本の文化として世界的にも人気が高まっています。その日本犬の頭数の9割近くは、柴犬だと言われています。質量ともに、日本犬の中心的な存在である柴犬。その柴犬が、今あるのは、中村鶴吉さんのおかげだと、愛犬家の一人として、私は感謝せずにはいられません。

 

ただ、探査記録は、どれも報告書的な筆致で、中村鶴吉さんの人柄や犬に対する愛情には、触れることはできませんでした。しかし、最近になって、中村鶴吉さんのお孫さんにお会いでき、昔のアルバムを見せていただくことができました。

 

 

そこには、犬を抱いた中村鶴吉さんが静かに微笑んでいました。そして、その写真の横に「主婦の友」の文字。これは、もしかしたら当時中村鶴吉さんが、「主婦の友」に取材を受けた時の写真ではないかと直感し、すぐに国会図書館へ行き、当時の雑誌を確認することができました。

 

そして、1937年「主婦の友」5月号の「小資本で儲けの多い流行の副業」という特集記事の中に中村鶴吉さんの文章を見つけました。特集のタイトルを見たときは、イヤな予感がしたのですが、そこには鶴吉さんの思いが、この様に綴られていました。

 

 

全くのところ、私は犬が好きだから飼っているので、

算盤を弾いてこれで儲けようなどなど考えたことはありません。

正直のところ、副業に犬を飼うなどという考えは、私はむしろ反対です。

このお話も、そういう点は第二のこととして読んでください。

実際また、そんな考えで犬を飼っても、決してうまくゆくものじゃありません。

 

犬を飼うのはちょうど、子供を育てるようなものです。

自分の子供を算盤を弾いて育てる人はいないでしょう。

時には、自分の身さえ犠牲にして、子のためを思う親心、

私どもが、犬を育てる心構えも、これと少しも変わりません。

 

まず犬が好きなこと、

犬と一緒なら死んでもいいというくらいの熱心さが、

初めて優れたものを作らせる力なのです。(中略)

 

もう一度申し上げますが、犬を飼う人は犬が好きでなくてはいけません。

これから飼おうとなさる方に、特にこのことを申し上げておきます。

 

1937年「主婦の友」5月号「小資本で儲けの多い流行の副業」より引用

 

 

石州犬「石号」のリードを持つ人影が見えます。

たぶん中村鶴吉さんではないかと思います。